
はじめまして( ´ ▽ ` )ノ
はじめまして。「すさきかつゆき|須崎克之のブログ」にアクセスしていただきありがとうございます。このサイトは愛知県豊橋市を拠点にフリーランスのウェブ屋として活動する僕の個人的なブログサイトです。
これまでクライアント依頼のサイト以外にもいくつものサイトを立ち上げ運営してきました。しかし多くのサイトは仕事目線のコンテンツが多くプライベートな話題とかウェブ制作以外の話題はほとんど発信してきませんでした。しかし2025年、僕自身が還暦を迎えるにあたり仕事以外での自分の考えをまとめてみたり趣味の話題とか日常の他愛のない話題とかブログで発信してみようかなと考えこのサイトを2025年3月に公開開始しました。
さて、このサイトのタイトルですが、もちろん僕の本名です。ただ、何故ひらがな表記なのか?「須崎克之」では不都合があるのか?ということですが…「須崎」ですと「すざき」なのか「すさき」なのかよく分かりません。どっちでもいいと言えばどっちでも良いのですが、仕事などで直接会って自己紹介したりするときに「すさき」と言うと聞き返されることが多く「ささき」と聞き間違えられたりします。「すさき」って言いづらいですし、つい僕も「すざき」と言ってしまいます。ですが本当は「すさき」ですのでこのサイトのタイトルでは敢えてひらがなで表記してみました。
また、このサイトのデザインのベースは「政治家パック」と言う僕がクライアントに提供しているWordPressを活用したウェブ制作パックです。その政治家パックのデモサイト的な要素もあります。政治家のサイトって漢字の画数が多いとか読み方がわからないとかで、よくひらがな表記にしていますよね?そんなこともあり「すさきかつゆき|須崎克之のブログ」と言うタイトルにしました。
ちなみにこの政治家パックは別に政治家じゃなくても僕のようにフリーランスで活動している人やタレントやミュージシャンなど自分自身をブランディングしたいと言うような人にも最適です。お気軽にご相談ください。

プロフィール



豊橋市の東部地区、弓張山地の麓で周りは柿畑や田畑、養鶏場という田舎の家に生まれ育ちました。須崎家は元々名古屋に住んでいたのですが、太平洋戦争の時に豊橋に移り住んできたと言うことです。父はサラリーマン、母は教員、父の両親と僕、2歳下の妹の6人家族でした。




現在は飯村小学校の校区ですが当時はまだ飯村小学校が無かったため二川小学校に通いました。バス通学でした。当時は国鉄バスで車掌さんが乗っていました。バスの乗客は僕たち小学生以外にもサラリーマンも多く乗っていて座れることは殆どなく立って乗車していました。
当時のバスには灰皿がついていて当然バスの車内でタバコを吸うおじさんたちも多数。いまでは考えられないことですね。そんなバス通学ですが3年生ぐらいの時に中止になりました。おそらく児童数の増加でバスに乗り切れなかったからと想像します。帰りはバスで下校したりもしました。
バスで通学していた距離ですから学校まではかなりの距離がありました。小学生の足で50分くらいはかかったと思いますが当時の二川小学校は校区も広く、僕らよりも遠くから通う友達もいました。通学路は舗装もされていない車が一台やっと通れるような「山道」で道草を食うには格好の条件です。長い通学時間も全然苦にならなかったと記憶しています。
4年生からはマーチング部に入りトランペットを担当しました。小学校1年生の時にトランペットを吹く上級生を見て「カッコいい!」と憧れていました。グラウンドでの全校朝会や運動会、豊橋まつりのパレードに参加しました。



小学校と同様に現在は東部中学校の校区ですが東部中学校が出来る前でしたので二川中学校に通いました。自転車通学です。1年生の時は技術部、2年生からは陸上部に所属していました。割と荒れていた時代であんまり楽しい思い出は無いですね。
それなりに真面目に宿題やったりとか学校生活も特に問題も起こさずに過ごしました。成績は割といい方で当時、アマチュア無線に夢中だったこともあり地元の工業高校の進学を考えていました。工業高校で成績が優秀だとまだ出来たばかりの豊橋技術科学大学に推薦で進学できるみたいな話があり、そこを目指そうかと思ったりしていました。
しかし、担任の先生の普通科の高校に進学してから好きな大学を選んだ方が良いというアドバイスで簡単に方向転換。当時は普通科は豊橋学校群の1群と2群がありました。1群に合格すると伝統ある時習館高校か新設の豊橋南高校に振り分けられ、2群に合格すると伝統ある豊橋東高校か新設の豊丘高校に振り分けられるというものでした。
担任の先生には「須崎は2群じゃね?」みたいなことを言われましたが1群を志望。3年の夏休みくらいからは夢中だったアマチュア無線も封印し問題集とか買ったりして割と真面目に受験勉強をしました。


真面目に勉強した甲斐があってか、ちょっと難しいと言われていた豊橋学校群第1群に合格しました。振り分けられてのは豊橋南高校でした。時習館じゃなくて親がショックを受けている家もあったようですが僕は全然気にしてませんでした。3年間陸上部に所属していました。
2年生の夏に父が東京へ転勤となりました。普通なら単身赴任というところだと思うのですが母と2つ下の妹は一緒に東京へ行ってしまい、僕は高校近くの下宿で生活することになりました。週末は自宅に帰って家の風通しをしたりするため、下宿先には衣類と教科書、参考書しかもっていきませんでした。下宿先の周りは民家と畑ばかりで出かけても何もありません。同じ下宿には愛知大学の学生だけで高校生の僕はあまり相手にされませんでした。夜がヒマでヒマで勉強ばかりしていました。おかげで成績は急激にアップしました。
3年になる時、妹が豊橋の高校に進学。2人下宿させるのは金銭的に大変という事で妹と二人で自宅で生活することに。通学時間が増えたことと家事などに追われて勉強は全く疎かに。成績も急激にダウン。受験勉強どころではなく目標としていた北海道大学合格には遠く及ばない成績でした。
ちゃんと受験勉強できる時間が欲しいと両親にお願いして1年浪人することに。元々親の都合で成績上がったり下がったりだったので受け入れてくれました。豊橋には河合塾しか無かったので河合塾に通うことに。「生徒の駿台、講師の代ゼミ、机の河合塾」なんて言われた時代ですが、豊橋校の机はお世辞にも「机の河合塾」なんて胸を張れるようなものではなく高校の時の机と変わりありませんでした。
割と真面目に勉強していたので成績も順調に推移し、北海道大学を受験するに充分のレベルになりました。予備校というのは受験のための勉強だけをするので結構時間は余裕ありましたので2学年下の後輩の高校生相手に数学の家庭教師をしたり、近所の子供相手に英語塾をやったりして小遣い稼ぎしていました。
僕にとっては2回目の共通一次試験です。北海道大学の受験を考えていた僕は共通一次試験で合計760点くらいを目標としていました。完全に理系の僕は国語と社会はそれぞれ100点取れるかどうかというどうしようもない成績。つまり数学、英語、理科は満点に近い点数を取らなくては行けません。しかし模試ではそれなりの点数を取れていたので、英数理の3教科で560点取る自信はありました。
しかしこの年の共通一次試験である事件が起きました。数学の問題でアスタリスクを大量に使用しないといけないという「昭和の米騒動」とも言われました事件です。これには大変焦りました。1985年の共通一次試験を受けた人にしか分からない事件です。そんなこともありましたが自己採点で何とか目標の760点はクリアでき2度目の北海道大学受験に挑むことになりました。



1年の浪人の末、北海道大学に入学することができました。よく「なぜ北大に?」なんて訊かれましたが、単に北海道で暮らしてみたかっただけです。もう一つ行きたかった大学が琉球大学でしたから不真面目ですね。
大学時代は山に登ったりスキーしたり友人と酒を飲んだりバイトしたりと普通の大学生でした。ただ当時はバブルに世の中が浮かれている時期で僕より少し年上の社会人の人たちのことを羨ましく思ったり、一方でこんなんでいいのかなぁなんて思うことがあったり…色々考えた時期でもありました。
色々と考えた末に大学を辞める決心をしました。周りからは「とりあえず卒業だけでも」なんて言われましたが、若かったせいもあるのか「とりあえずの卒業」もイヤになっていました。



大学中退後に仲良くなった女性と結婚しました。そんなに貯金があったわけでもなく僕の親族は愛知県、彼女の方は北海道ということで両方でそれぞれの親族が集まって披露宴を行いました。友人とはいつも通っていた居酒屋でパーティーと簡素に行いました。



スキー場などの観光地での仕事に興味があったので倶知安町に移住しました。倶知安町というとあまりピンとこないかもしれませんが「ニセコひらふスキー場」のある町です。夫婦でスキー場麓のペンションで住み込みのアルバイトをしました。リフトのシーズン券も購入して空き時間はスキー三昧でした。
1シーズンそのペンションでアルバイトした後、春からは別のペンションの雇われオーナーみたいな仕事をしました。しかしオーナーと意見が合わず半年でクビに。そのペンションも間も無く経営が行き詰まってました。
2シーズン目の冬はゲレンデ麓のホテルのフロントマンとして妻は同じホテルのウエイトレスとして就職。男子寮、女子寮と分かれていたので別居生活。それでもやることはやってたので春に妻が妊娠していることがわかりました。
2シーズン目の冬が終わり倶知安町の町営住宅を借りることに2DKで家賃は7000円。そして僕は同じひらふスキー場の麓にある別のホテルの正社員として就職しました。このホテルは夏も営業しているのですが、まぁ職場環境は最悪で冬のスキーシーズンは6時出勤で21時退社、休みが月に1日あるかないかというブラック企業。よく体を壊さずに務めたと思います。
そんなブラックなホテルを2シーズン務めましたが、ひらふスキー場のペンション街で空き店舗が出た情報があり、その店舗を借りて飲食店を始める決心をしました。メニューについては色々と試行錯誤を重ねましたが手作りのソーセージ、ハム、ベーコンをメインとした料理を提供しました。この時に初めてのホームページを作成しました。
そんな中である人の紹介で小さなビール工場をやらないかという話がありました。当時すでにブームが過ぎてしまった感のある「地ビール」です。それまで僕は地ビールというものにそれほど興味がなく「高いだけ」のビールと思っていました。
しかし、実際に地ビールを始め海外のビール、ベルギーやドイツのビールを色々飲んでみると実に多様で美味しく感じます。僕が店で提供しているソーセージやハムにも合います。それに気付いてから、もう何がなんでも自分でビールを作りたいという気持ちが湧いてきました。




ビールの製造免許は年間の製造計画が60キロリットル。一方で発泡酒の製造免許は6キロリットルです。発泡酒というと麦芽の使用率が低い「安いビール」というイメージですが酒税法では果実や野菜、スパイスなどの副原料を使用していれば麦芽使用率が高くても発泡酒になります。酒税もビールと同じ税率になります。ラベルには「発泡酒」と記載しないといけませんが味はビールと比べても全く劣りません。
ところがこのビール事業をやらないかと話を持ってきた人物が実はとんでもない曲者で20年近く前に羽毛布団の詐欺商法で実刑判決を受けたことがある人物ということがわかりました。もちろん前科があるからと言って悪さをする人かどうかは判断できません。しかし調べてみると僕以外にも何人もの人がビール事業を持ちかけられ「コンサル料」名目で100万から500万くらいを払ったままその後、話が進まなくて立ち消えに。僕のようになんとか製造免許を取得し開業に繋げることができた人でもさまざまなトラブルを抱えていました。
細かい経緯は書きませんが、開業時期が大幅に遅れ運転資金が底をつくというような事態に陥ってしまいました。
そんな状態でなんとか開業に漕ぎ着けた発泡酒醸造事業ですが運転資金も設備も十分でない中、試行錯誤を重ねながら、また身内の出資協力も得ながら何とか続けてきました。しかし最初のつまづきが大きく負債ばかりが膨らんでいきます。特に酒税の負担が重く、かといって現在のように「クラフトビール」として高い料金設定がでくるような背景もなくジリ貧の状態になっていきました。
開業資金として借り入れた1000万円と酒税の滞納が300万円。事業が好転する要素を見出せず廃業を決断しました。そこでパソコン1台あれば仕事になるウェブ制作業者になりました。もちろんそれだけでは2人の子供を食べさせていくことは出来ませんから宅配便のドライバーをしながらウェブの制作をするという2足の草鞋です。妻も働きに出ていましたので家事はもっぱら僕の仕事です。
忙しく大変な時期でしたがなんとか負債を返していきながら生活を立て直すことができそうになってきた矢先、当時中学2年生だった長男が不登校になりました。
不登校というのは今では割と受け入れられるものとなりましたし、別の道も選択出来るようになりましたが、当時はまだなんとか学校へ通わせようという雰囲気のみがあり僕たち保護者も学校もその方向でしか物事を考えられませんでした。
長男が色々と不安定なため妻は仕事を辞めて常に家にいる様になりました。今思えばそれは逆効果だったかなとも思いますがその時は僕たち夫婦は何とか長男を楽しく学校に通わせたいという一心でした。妻が仕事を辞めたことによりまた生活は不安定に。
そんな状況下でいつかは生まれ育った豊橋に戻らないといけないかな?という気持ちも後押しとなり色々と環境を変えるためにも豊橋市へUターンすることにしました。妻にとっては不安もあったと思いますが話し合いの結果、豊橋への移住を受け入れてくれました。ただ、結果としてその後、妻とは別居状態となりました。





長女が小学校3年生の時から妻とは別居状態になりました。小学校の保護者会とか個人懇談とか僕が行くしか有りません。豊橋に戻ってからもウェブ制作の仕事をベースにしていたので割と時間のコントロールは出来るため何とかなりました。そんな僕の平日でも学校の行事に顔を出せるというところに目を付けられたのかPTA役員なんていうものをやる様になり、長女が6年生の時にはPTA会長をやることになりました。
当時もまだ引きこもり状態だった8歳年上の長男が小学生の時もPTA役員をやりましたし、おやじの会でさまざまな活動もしました。自営業だとそういう役回りがついて回るんですよね。
その後、長女が中学生になった時もPTA会長をやることになり、小学校、中学校と長女の卒業式で祝辞を述べるという役得を引き受けることとなりました。祝辞については最初は抵抗がありましたが自分の子供の節目の式でその様な役をできたことを今では感謝しています。
またその頃から引きこもりだった長男も少しずつアルバイトをする様になり社会との接点を作って行く様になりました。同世代との付き合いにはトラウマがあるのか少し上の世代の方達に可愛がられていました。周りの人たちには感謝しかありません。引きこもりや不登校というのはいくら当事者が頑張ってもなかなか解決しません。ちょっとした偶然や出会いが大きく変わるチャンスになります。


2020年の春、長男はお付き合いしていた女性と同棲を始め、長女は専門学校で寮生活をすることになりました。2人の子供が同時に家を離れることになりました。当時はコロナ禍が始まったばかり。世の中も自分の周りも何かと不安で閉塞した雰囲気が漂っていました。
長男の彼女が心臓の病気で入院したり、長女が通っている専門学校でクラスターが発生したりと心配の種はつきませんでした。僕の仕事においても休業を余儀なくされるクライアントさんもいて売り上げが大きく落ち込むといった状態でした。
そんな状況下で自動二輪の免許を取得するために自動車学校に通うことにしました。大学生時代に一度は取得しようと思いましたが山登りや友人と飲むのに忙しく、またお金もなく断念していました。その後、割と早くに結婚し、事業でつまづいたりしていたのでそれどころではなくあっという間に50代半ばとなっていました。
「今しかない。」
そう思い、自動車学校に通い始めました。仕事柄、時間のコントロールは出来るので2週間ほどでささっと免許を取得することができました。
2021年の12月中旬、自治会の住みよいまちづくりの会の会長の方から電話があり「ちょっと話したいことがあるので家に行っていいか」と。住みよいまちづくりの会には僕も入っていて朝の登校見守り活動などをしています。
「何の用だろう?」
と待っていると当時の自治会長と2人でやってきました。話を聞けば…
「来年度の自治会長をやってほしい」
2022年度は僕は組長が回ってくる年度です。ただ、自治会長は4つのブロックで構成されている自治会内でブロックの輪番で回ることになっています。来年度は僕のブロックは当番ではありません。僕が所属するのは3ブロックで来年度は4ブロックから選ぶことになっています。
そのことを2人に言いましたが、4ブロックで引き受けてくれる人が見つからないと僕のところに泣きついてきた感じです。PTA会長とかやっていたので自治会長も大丈夫でしょう。という考えの様です。しかし僕にとっては寝耳に水というか、そもそも自治会のことはよく分かりません。1年間副自治会長をやってその後、自治会長とかならまだ分かりますが、いきなり自治会長なんていうのは無謀な話です。
しかし2人とも僕が首を縦に振るまで帰る気配はありません。1時間以上も粘られ結局、来年度の自治会長を引き受けてしまいました。自分に務まるんだろうか?という不安ばかりでしたが一方で何とかなるでしょ!という気持ちもありました。ただこの自治会長を引き受けたおかげで、その後の人との交流の幅が広がったのは間違いありません。
2021年に普通自動二輪の免許を取得する時にすでに決めていたこと…それは大型自動二輪の免許を取ることでした。実は僕は2014年ごろからYAMAHAのディーラーさんのウェブサイトの制作と運営のお手伝いをしていて、そのお店に初めて伺った時に目にしたバイクで一目惚れしてしまった車種がありました。
その時はまだ子供にお金も時間もかかる時期でしたので「カッコいいなぁ」と思っただけでしたが、いざ自分がバイクの免許を取得するとなればどうしてもそれに乗ってみたくなります。それがYAMAHAの大型バイク「BOLT」でした。2021年に普通自動二輪の免許を取得するために自動車学校に通う際に「いきなり大型取っちゃう?」と思わなくもなかったのですが、年齢が年齢だしちゃんとステップアップしていったほうがいいと思い、まずは普通自動二輪を取得したのでした。
結果としてそれは正解で大型自動二輪の教習はつまづくことなく免許を取得することができました。そして晴れてBOLTオーナーとなりました。実はこのBOLTこの時点ですでに生産終了で新車は市場に残っている車両のみでした。BOLTが販売開始されたのが2013年末。その翌年からYAMAHAディーラーさんとお付き合いさせて頂き、僕がそのBOLTオーナーになったのが生産終了の年。何となく運命的なものを感じます。
BOLTオーナーになって2025年4月で2年です。これからもBOLTで出かけるのが楽しみです。
自治会長も2年目に入りました。自治会長は基本的に1年で交代ですがどうせやりたいなんていう人はいないし、1年間やって色々と問題にも気づき、もう一年やって自治会の組織改革みたいなことに取り組んてみようと考えていました。
そんな中での統一地方選挙。豊橋市議会議員選挙です。前の年から校区推薦と言われるある市議会議員の選挙の準備として校区自治会の会議で何度か話し合いが行われました。僕自身はその市議会議員に興味もないし特に支持しているわけでもないのでいつもその話はぼんやりと聞いているだけでした。「自治会長として名前載せるだけでしょ?」くらいに思っていました。
実際、そんな感じだったのですが選挙戦に入ると選挙事務所にいなければいけなかったり、個人演説会での弁士をやらされたりと…まぁ苦痛な選挙期間でした。その甲斐あってかその候補者は無事2期目の市議会議員として当選することができました。
実は僕、PTA会長をやっていた時の知人など市議会議員には数人の知り合いがいます。彼らとはFacebookでお友達になっていたり、報告会みたいなところに参加したりすることもあります。ですから市政に興味がないわけではなく、興味や僕なりの考えがあるからこそ「校区推薦」なんていうものには納得はできませんでした。実際、豊橋市の自治連合会が作成している「自治会運営の手引き」にも政治的活動、宗教的活動については異なる考えもあるから配慮するようにと書かれています。
自治会長なんてものをやっていると、様々な団体から会議に出て欲しいという要請があります。その多くは自治会関連団体ですが、ちょっと面白いところから声がかかりました。ある市議会議員を通じてなのですが「浜松湖西豊橋道路を考える会」という住民団体です。
浜松湖西豊橋道路というのは豊橋港から湖西あたりを経由して三ヶ日JCTへ繋げるという自動車専用道路の建設計画です。正直言って僕はこの計画は知りませんでした。しかしちょっと調べてみると商工会議所、地元選出の国会議員、県議会議員、市長などが並んで写真に写っている記事などが見つかります。3000億円を超える費用がかかる事業なのに近隣住民がほとんど知らないというのはどういうことなのかしら?と疑問に思いました。
この浜松湖西豊橋道路が完成したら「渥美半島道路」ゆくゆくは伊良湖岬から紀伊半島や知多半島へなんて構想もある様です。一体いくらかかるのか知りませんが人口減少に歯止めが掛からない今、必要ですかね?という疑問はあります。ともかく、この様な道路計画があるのを市民があまり知らないのは問題と思い「浜松湖西豊橋道路を考える会」のホームページをボランティアで作成しました。

「浜松湖西豊橋道路を考える会」の集まりに参加する中で辻恵さんという方と出会いました。全然知らない方でしたが何でも次の衆議院議員選挙で愛知15区でれいわ新選組から立候補する元衆議院議員だということでした。この様な住民の集まりに議員とか候補者が参加することは珍しいことではありません。特に地元財界や自民党の働きかけで動いているような事業について考える住民の集会の場合、与党以外の政治家が顔を出すのはある意味当然のことの様に思います。
ですからあまり気に留めていなかったのですが、その後、何度か辻恵さんのイベントみたいなのに参加して行く中で「本物の政治家なのかも?」という考えに変わって行きました。
3回目くらいに参加したイベントで渡されたチラシに公式サイトのQRコードが載っていたので何気なくアクセスしてみると502エラー表示。何度試してみても同じエラー表示です。502エラーはサーバー側の問題ですのでどうしようもありません。どこのサーバーを利用しているのか分かりませんが好ましくない状態であるのは間違いありません。(後で分かったことですが料金の未払いによるレンタルサーバー側による処置だったようです)
数日後、公式サイトにアクセスできたので内容を見て…
「これはまずくね?」
WordPressで構築されているものの掲載しているコンテンツはイベントなどのチラシのスクショを貼り付けているだけのウェブサイトです。テキストのコンテンツはほとんどありません。「辻恵」でググっても検索結果に表示されません。
「あの、ホームページ、僕、作りましょうか?」
というわけで後援会のサイト制作、選挙戦直前には公式サイトのリニューアル、選挙戦中の更新作業をボランティアで行いました。


辻恵さんの選挙結果は残念でしたが、僕自身はまぁ面白い経験をさせてもらえたと思っています。昨今のSNSを活用した選挙戦なんていうものにも色々と考えさせられることもありましたし、政治家や議員、候補者がインターネットの活用についてほとんど理解していないことにも気づきました。
そんな経緯からこの衆議院議員選挙後に「政治家パック」なんていうホームページ制作プランをリリースし、そのデモサイト的な位置付けでこのブログサイトも制作しました。

これまでウェブデザイン・クロスロードのウェブサイトでもブログらしきものを書いてきました。ただ、どうしてもコンテンツが仕事がらみのものばかりになってしまい、書いていてもあんまり面白いということもありませんでした。今回このブログを始めるにあたって全く仕事と関係ないかといえばそうともいえませんが、少なくとも仕事以外の投稿も自然にできるのではないかと思います。
問題はちゃんと続けられるかどうかです。とりあえず気楽に取り組んでみようとこのプロフィールページの記事を書いています。