子どもたちの未来のためとは何か?ボランティアによる支援と大規模公共事業

子どもたちの未来のためとは何か?ボランティアによる支援と大規模公共事業

はじめに~東三河ひとり親家庭応援プロジェクト

昨日「東三河ひとり親家庭応援プロジェクト」のお手伝いで、子どもたちと一緒に楽しい一日を過ごしました。会場は農家さんの畑。とれたてのとうもろこしを炭火で丸焼きにしたり、かまどで炊いたとうもろこしのおこわをみんなで食べたり。雨上がりの畑では、子どもたちが裸足になって泥だらけになって遊びまわり、大人たちも笑顔でその様子を見守っていました。

その風景は、たしかに「楽しかった」の一言です。しかし、この活動「東三河ひとり親家庭応援プロジェクト」にかかわるようになって半年ですが、ふと胸の中に湧いてきた思いがあります。「これで、本当に十分なのだろうか?」

一日限りのイベントで、お腹を満たし、笑顔を見ることはできる。でも、その子たちの日々の生活はどうなっているのだろう。明日のごはんは?学校では?家では?そんな問いが、楽しかった余韻のすぐ隣にありました。

そんな時に目にしたのが、「こども食堂」の名付け親である近藤博子さんが、「こども食堂の大きな流れから一線を引く」と表明した記事でした。子どもの貧困や孤立に向き合ってきた彼女の言葉には、「ボランティアでは限界がある」という強い実感と、社会の構造への問いかけが込められていました。

私が日々感じていた違和感や無力感を、彼女は明確な言葉で表してくれていました。今回は、近藤さんの発言を入り口に、「本当に子どもたちの未来のためになる支援とは何か?」を考えてみたいと思います。ボランティア活動の現場で見えてくる限界と、一方で進められている例えば豊橋新アリーナ建設計画のような大規模な公共事業。そのギャップから、見えてくるものがあるはずです。

広がる「こども食堂」と、その限界

こども食堂

全国で1万カ所を超えた「こども食堂」

「こども食堂」という言葉は、今では多くの人に知られるようになりました。全国でその数は1万カ所を超えたといわれています。地域の飲食店や民家、公民館などを活用し、子どもが無料または低額で食事ができる場所として広がってきました。

こうした活動は、地域の中で子どもたちの孤立や貧困に目を向けるきっかけとなり、確かに多くの意味を持っていると感じます。地域の大人が「気にかける」場をつくるという意味でも、こども食堂の存在意義は大きいものがあります。

CMがつくる理想像と、現場とのギャップ

ACジャパンのテレビCMでは、著名な俳優がこども食堂を訪れ、子どもたちに促されて一緒に食事をする様子が描かれています。電車の中吊り広告などでも見かけることが増えました。こうした映像からは、こども食堂が「温かく、やさしい場所」として社会に認知されていることがうかがえます。

しかし実際の現場では、「理想」と「現実」のギャップに悩む声も少なくありません。CMを見て期待して訪れた人たちが多すぎて、キャパシティを超えてしまう。助成金が潤沢に出ているわけでもなく、限られた人手と資金でなんとかやりくりしているのが現実です。現場のボランティアの負担は、社会のイメージほど「優しく」はないのです。

「月に数回の食事では、何も変わらない」

こども食堂の名付け親である近藤博子さんは、こう語っています。

月に1度や2度、あるいは週に1度、食事を提供しても、子どもの貧困は何も変わりません。

一時的にお腹を満たすことはできても、それで根本的な課題が解決するわけではないというのです。子どもたちが直面しているのは、単なる「空腹」だけではありません。保護者の就労問題、教育格差、住環境、心のケア、それらすべてが複雑に絡み合った「生きづらさ」がある。

そしてその「生きづらさ」は、こども食堂だけで解決できるものではないのです。

「善意」に支えられた不安定な仕組み

こども食堂の多くは、地域の善意によって支えられています。農家の方からの野菜の提供、飲食経験者による調理支援、地元企業の寄付、その一つひとつがありがたく、大切な力です。

けれど、その仕組みは決して安定したものではありません。補助金の申請は煩雑で、運営に必要な事務作業も多い。それでも継続しているのは、「あの子が来るから」「顔なじみの親子が待っているから」といった、人と人とのつながりへの思いがあるからです。

しかし、支援する側の生活もまた、決して楽ではありません。「支援している私たち自身が疲弊していく」。そうした声も、こども食堂をめぐる現実の一部なのです。

豊橋市でも同じことが起きている

市内各地で広がる、地域のこども支援の取り組み

私が関わっている「東三河ひとり親家庭応援プロジェクト」だけでなく、豊橋市内ではさまざまな場所で子ども支援の取り組みが行われています。市民館や地域の集会場、教会や店舗の空きスペースなどを活用して、こども食堂のような食事支援や学習支援を提供する活動が根付いています。

地域の農家さんが野菜を提供してくれたり、料理が得意な人が無償で腕をふるったり。そうした取り組みには、たしかに地域の「やさしさ」や「想い」が込められています。見守る大人がいる場所、ひとりじゃないと感じられる時間。それらは子どもにとって、かけがえのないものです。

けれど、それは持続可能な支援ではない

しかし、それらの活動はどこも同じ課題を抱えています。継続的な資金がない、人手が足りない、場所の確保が難しい。行政からの補助金があっても、一部に限られ、毎年のように申請と報告に追われます。「続けたいけど、自分の生活もある」という声は少なくありません。

中には、活動を紹介する記事やCMを見て「ここは支援で儲けている」と誤解されたことがあるという話も耳にしました。本当は、ギリギリの運営なのに。

誰かが無理をして、誰かが時間を削って、それでも目の前の子どもの笑顔のために動いている。そんな状況がずっと続くわけではありません。これは「いつか限界が来る」支援です。

求められているのは、「生活まるごと」を支える支援

今、本当に求められているのは、継続的で制度として保障される支援です。食事の提供だけでなく、就労支援、住宅の安定、教育支援、医療やメンタルケア、家庭の生活そのものに向き合う仕組みが必要です。

夏休みの間だけ給食がなくなる家庭に、お弁当を届けることはできないか?地域にいる子育て世代の孤立を防ぐ仕組みは作れないか?民間やボランティアの善意に頼るのではなく、行政が本気で「子どもと家庭の暮らし」に取り組むべき時期にきていると感じます。

小さな笑顔の裏にある、大きな課題。豊橋という一つのまちの中にも、それは確かに存在しています。そして、今の仕組みでは、そこに十分に手が届いていないのです。

一方で進む、大規模な公共事業

一方で進む、大規模な公共事業

豊橋市が進める新アリーナ建設計画

今、豊橋市では「新アリーナ建設計画」が進められようとしています。市の中心部にある豊橋公園内に、多目的屋内施設を整備しようという構想で、スポーツ観戦やイベント開催を見込んだ施設です。昨年秋の豊橋市長選挙後、議会や住民の間でも賛否を呼んでいて住民投票へという流れになっています。

もちろん、公共施設の整備は地域の活性化に寄与する面もあります。しかし、一方で考えてしまうのです。この何十億円、何百億円という規模の予算を、いま本当に優先すべきはアリーナなのだろうか?と。

浜松湖西豊橋道路3,000億円超の巨大プロジェクト

さらに国レベルでは、「浜松湖西豊橋道路」というインフラ整備も計画されています。この事業には、国の試算で総額3,000億円以上が投じられる見通しです。地元経済界の要望に応える形で進められており、物流効率の向上などが期待されているとされています。

しかし、この巨大プロジェクトもまた、誰のための事業なのか?という問いを抱かずにはいられません。大規模な公共投資が進められる一方で、目の前にいる子どもたちの食卓には、毎日の不安がある。学校に行くための靴がボロボロだったり、塾どころか宿題のサポートもない家庭がある。そんな現実に、同じ熱量が注がれているとは思えないのです。

財源はある。でも、それは「誰のため」に使われているのか?

「財源がないから、支援が難しい」と言われることがあります。でも、こうした大型事業に何百億円、何千億円も使えるのであれば、それは本当に「財源がない」のでしょうか?

アリーナに投じられる230億円のうち、ほんの数億円でも子どもと家庭の支援に回すことができたら。ひとり親家庭の食費補助、教育機会の平等、住宅支援、虐待防止の体制強化などやれることはたくさんあるはずです。

お金がないのではなく、「どこにお金を使うのか」の優先順位の問題ではないか。そう思えてなりません。

政策から抜け落ちた「子ども」という視点

これらの公共事業に共通しているのは、子どもや子育て世帯の視点が、ほとんど見えてこないことです。将来世代の育成に本気で取り組むなら、教育・福祉・居場所づくりにもっと投資してもよいはずです。

少子化が止まらない、子どもの貧困が深刻だといわれる今こそ、「何に税金を使うべきか」を問い直すべき時ではないでしょうか。大人の都合で進む開発よりも、未来を生きる子どもたちの暮らしを守るほうが、はるかに重要だと僕は思います。

支援の本質を問い直す

ボランティア
Group of smiling young students volunteering at charitable foundation office and packing food and waterr in big paper packages for people in need

行政の縦割り構造と、地域との連携の弱さ

現場で子どもや家庭と関わっていると、行政との連携の難しさを痛感する場面が少なくありません。支援が必要な家庭に出会っても、「これは児童相談所の管轄」「それは生活福祉課の対応」「教育のことは学校に」と、たらい回しのような状態になってしまうことがあります。

地域には、民生委員や自治会、保護司など、すでに存在する支援機能もありますが、こども食堂のような新しい活動とは接点が乏しく、連携が取れていないケースも少なくありません。「連携しましょう」と言葉では言われても、情報共有の仕組みもなく、責任の所在が不明瞭なまま、結局は地域の個人が矢面に立たされることもあります。

「支援」は制度や施設だけではない~人との関係性がカギ

支援というと、「制度」や「施設」が思い浮かびがちですが、本当に子どもや家庭が必要としているのは、安心して話ができる大人の存在や、孤立しない環境です。「ここに来れば、誰かが見ていてくれる」「困ったら相談できる」。そんな空気を地域に生み出すことこそが支援の本質ではないでしょうか。

一方で、そうした「人と人とのつながり」を生み出すには時間がかかりますし、信頼関係の構築は一朝一夕にはできません。そしてそれは、制度では作れないものです。だからこそ、その役割を担っている地域の担い手たちの声に、もっと耳を傾ける必要があります。

ボランティアに丸投げされる構造は、もはや限界

いまの子ども支援の多くは、「善意」と「自己犠牲」に支えられています。「できる人が、できる範囲で」という前提があるにもかかわらず、実際には「やらなければならない」空気に包まれ、責任感と疲労感だけが積もっていく。

この構造は、実はPTA活動や自治会・町内会活動ともまったく同じです。どれも「任意」や「ボランティア」と言いながら、実際には暗黙の強制があり、役員を引き受けた人が過重な負担を背負うことが珍しくありません。そして、やっても評価されず、感謝もされず、「昔からの決まりごと」で片づけられてしまう。

PTAも自治会も、子どもや地域のための大切な組織であるはずなのに、それを支える人の心と体力が削られていく。こども食堂や地域の支援活動と同様に、「支える側が持たない」構造になっているのです。

「地域力」とは、仕組みで支える力

「地域力」「共助」という言葉は、行政でもよく使われます。ですが、その実態が「無償の奉仕」や「やさしさへの期待」だけであるならば、それは持続しません。

本当の意味での「地域力」とは、地域の中で支援活動に携わる人たちに、きちんと評価や報酬が支払われる仕組みがあること。たとえば、地域福祉コーディネーターのサポート役に、地元の活動者を有償で雇う、情報共有の場に謝礼付きで参加してもらう、といった工夫も可能です。

PTA役員や自治会役員、こども支援の現場で動く人たち。こうした地域の担い手を「無償で当たり前」としてきた社会の構造を、そろそろ見直す時期に来ているのではないでしょうか。

「ありがとう」だけで終わる支援ではなく、「必要とされ、報われる支援」へ。そうした転換が、今こそ必要なのだと思います。

いま必要なのは「税の使い方の再考」

少子化に歯止めがかからない日本で、子育て世代を見捨てることの代償

日本の少子化は加速の一途をたどっています。若い世代の結婚や出産の意欲が年々低下している背景には、「将来に希望が持てない」「子育てにかかるコストとリスクが高すぎる」という切実な不安があります。

にもかかわらず、子育て世代への支援は十分とは言えません。むしろ、自己責任の名のもとに負担が押しつけられ、「家庭でなんとかしてください」「地域で支え合ってください」という空気ばかりが広がっているようにも感じます。

少子化は単なる人口減少の問題ではありません。将来の社会保障制度、地域の経済、そして国全体の持続可能性にも直結する深刻な問題です。子育て世代を見捨てることは、未来の社会基盤を脆弱にするという、取り返しのつかない代償を伴うのです。

煮物を分け合い、子どもを一時預かる地域の力を支えるのは税金の役割ではないか

「地域力」「支え合い」といった言葉が注目される一方で、その実践の多くは無償の奉仕に支えられています。たとえば、隣近所で煮物を分け合う、用事の間に子どもを一時的に預かる。こうした営みが、地域の温かさであり、本当の意味でのセーフティネットなのだと思います。

しかし、そうした日常の思いやりをあてにしすぎてはいけません。支える側も、生活があり、限界があります。だからこそ、そうした活動を持続可能にするためにこそ、税金が使われるべきです。

目立たないけれど、確実に地域を支えている人たちに光を当て、その活動に対して報酬や支援を届ける。それが、税金の役割であるはずです。

税収が上がったなら、未来を生きる子どもにこそ還元すべき

豊橋市は近年、税収が上昇傾向にあると聞きます。これはもちろん、喜ばしいことです。しかし、だからこそ問われるべきは「そのお金を、どこに、どう使うのか?」ということです。

子ども・子育て支援、教育、地域福祉。これらは目に見えにくく、即効性もわかりにくいため、予算配分ではどうしても後回しにされがちです。けれども、本当に必要なのは、「いま大変な子どもや家庭」にしっかり届く支援です。

未来を生きる子どもたちのために、税金をどう使うか。その問いに正面から向き合わなければ、社会の未来もまた揺らいでしまうでしょう。

「立派な箱」より「つながる仕組み」を

大きなアリーナや道路。それらは確かに「目に見える成果」です。しかし、いくら立派な建物ができても、それが地域の暮らしとつながっていなければ意味がありません。

今求められているのは、「つながる仕組み」です。困っている子どもや家庭に、声が届き、手が届く。誰かが誰かを見守っている。それを制度的に、継続的に支える仕組みです。

立派な箱より、日常の暮らしの中で「大丈夫」と言える社会。それを支えるのが、私たちの税金であってほしいと、心から願っています。

おわりに~子どもたちの笑顔のために、私たちができること

こども食堂をはじめとした地域の支援活動は、「誰かの役に立ちたい」という一人ひとりの思いから始まりました。僕自身も、そんな思いで「東三河ひとり親家庭応援プロジェクト」の活動に参加しています。目の前で子どもたちが笑い、走り回り、時に甘えてくる姿を見て、「やってよかった」と感じる瞬間は、たしかに何にも代えがたいものです。

けれど、その一方で、やはりずっと引っかかっているのは「これで足りるのか?」「ずっと続けられるのか?」という問いです。これはこども食堂の名付け親である近藤博子さんが感じていたこととも重なります。ボランティアでは限界がある。善意だけでは、暮らしの根っこまでは支えられない。だからこそ、社会全体の仕組みの中で支えていく必要があるのだと思います。

この構造は、実はPTAや自治会・町内会の問題とも共通しています。「地域のため」「子どものため」と言いながら、結局は一部の人に過剰な負担がかかり、「やりたくないけど、仕方なくやっている」という声が増えている。そんな仕組みのままでは、誰も報われず、誰の未来も守れません。

私たちが望んでいるのは、大きなことではありません。特別なことをしなくても、子どもが安心して暮らせる、地域にちょっと頼れる大人がいる、そんな日常の積み重ねです。

そして、それを支えるのが、行政であり、税金であり、制度の役割であるはずです。

いま、豊橋では新アリーナや巨大インフラ事業が進もうとしています。それが本当に「市民のため」なのか、「未来の子どもたちのため」なのかを、もう一度問い直したいと思います。未来のために、立派な建物より、まずは一人ひとりの暮らしを支えるしくみを。

子どもたちの笑顔が続いていく社会を、本気で目指すなら…それが、私たち大人の責任であり、選ぶべき道だと思うのです。