「任意」の名の下の強制というPTAと自治会が抱える構造的問題

「任意」の名の下の強制というPTAと自治会が抱える構造的問題

今朝の新聞にある記事が目に留まりました。ひとつは「自治会費から神社費支出「信教の自由」に反する? 持続可能なあり方とは」そしてもうひとつが「PTAに入りたくない保護者、教員が説得も…任意のはずが根強い「強制」各地で不満上がる」という見出しです。自治会や町内会の問題とPTAの問題であまり関係の内容にも感じますが自治会、町内会、PTAはいずれも任意の団体で活動はボランティアという共通点があります。そしていずれも「加入したくないけど加入している」人が多いということも共通点です。

そんな共通点のある自治会、町内会、PTAの組織には同じような問題を抱えています。その2つの記事の内容を踏まえて現在の自治会、町内会。PTAの在り方を考えてみたいと思います。僕自身PTA会長を2年、自治会長を2年務めました。当時のことを思い返しながらより良い自治会、町内会、PTA活動が出来るようになるにはどうしたらよいか?その方法を探ってみます。

PTAの問題構造を見つめ直す

「任意加入」とされながら、実態は「全入」前提

本来、PTAは任意加入の団体です。加入するもしないも、各家庭の自由であるはずです。しかし、実際の現場ではどうでしょうか。記事で取り上げられていた岐阜県の高校では、入学説明会で配布された加入確認書に「入らない」と答えた保護者に対し、教員が改めて再検討を促し、結果的に全員が加入したとのこと。これが「任意加入」と言えるのでしょうか。

PTA会費がタブレットの修理代や進路指導の資料購入に使われていると聞かされると、「自分の子のためにも払わないわけにはいかない」という心理が働きます。これはある意味で半強制とも言えるでしょう。

僕自身もPTA会長を経験する中で、「断りたくても断れない」「やめたくてもやめづらい」という空気を肌で感じました。自由意思のはずが、結果的に全員参加となってしまうこの仕組みには、やはり違和感があります。

見えないピラミッドと「上納金」の構造

PTAは、単位PTA(各学校)だけで完結していないという特徴があります。市PTA、県PTA、全国PTAというピラミッド構造があり、それぞれに所属費(いわゆる上納金)が支払われています。集められた会費の一部は、こうした上部組織の運営や全国大会、セミナー、講演会といった事業に使われているのです。

しかし、こうした活動が本当に保護者や子どもたちの利益に直結しているのか、説明責任が果たされていないケースも多く見られます。「PTA全国大会」といったイベントがどれほど意味のあるものなのか、日常の子育てや教育支援にどう寄与しているのか、疑問に思う保護者も少なくありません。

僕がPTA会長をしていた時、全国大会が隣の三重県で開催されました。隣県ということで単Pから2名以上の動員がかかり僕も参加することになりました。豊橋市が用意したバス2台に乗って伊勢市まで。伊勢神宮を参拝してその後、講演会に参加。費用はすべて市Pの予算から。これも各家庭が収めたPTA会費の一部です。

ほとんどの保護者はPTAの全国組織なんて知りませんし全国大会が開催されていてその費用にPTA会費が使われていることは知りません。PTA会費を払っているのは保護者です。にもかかわらず、その使途についての説明は曖昧なまま。こうした不透明さが、「納得して参加する」文化を阻んでいる一因ではないでしょうか。

社会の変化とずれ続けるPTA体制

共働き世帯が当たり前になり、少子化が進む中で、PTAの活動量や役職の負担はあまりに重すぎると感じます。特に、小学校では運動会の運営や登下校の見守り、広報紙の発行など、多くの業務が保護者によるボランティアに依存しています。

「子どものために」との思いが、善意の連鎖を生みますが、それが続けば疲弊や不満にもつながります。実際、PTA役員のなり手不足は全国的な問題です。負担が偏り、一部の人が毎年のように役を引き受けなければならない地域もあります。

また、PTAを「辞めたい」「抜けたい」と思っても、その方法が明文化されていない、あるいは前例がないという理由で断念する保護者もいます。つまりやめ方がわからないのです。これでは、任意団体とは言えません。

私がPTAに関わっていた時も、「活動のあり方そのものを変えていかないといけない」と何度も感じました。保護者の生活環境が多様化する今、活動を続けることを目的とするのではなく、どうすれば無理なく、持続可能な支え合いができるかを考える時期に来ているのではないでしょうか。

自治会の制度疲労と宗教・政治のグレーゾーン

任意団体でありながら地域インフラを担う自治会・町内会

自治会や町内会は「任意加入の団体」とされています。加入しなくても法律上の罰則はありませんし、会費を支払わなくても生活自体が制限されるわけではない。そういう建前になっています。

しかし現実にはどうでしょうか。ゴミステーションの管理や広報紙の回覧、防犯灯、防災備蓄の管理など、生活に密接した地域インフラの一部を自治会が担っているケースが少なくありません。しかも、それらの活動に対して市町村から交付金や補助金が支給されているため、半ば行政の下請けのような形になっています。

私が自治会長を務めていた時も、「加入していない人にはゴミを出させないのか」「防犯灯の電気代は誰が払っているのか」など、境界の曖昧さに悩む場面が多々ありました。任意加入とは名ばかりで、実態としては地域に溶け込んで生活するためには必要なものとなってしまっています。

このように自治会や町内会が「地域社会への参加義務」と化し、自由意思での参加という原則は形骸化しています。

宗教との癒着・神社費の支出問題

新聞記事でも紹介されていたように、愛知県内のある自治会では、会費の中から毎年200万円もの「神社費」が支出されているという事例がありました。自治会の予算のうち2割が宗教関連費に充てられていることになります。

このような支出が、憲法に定められた「信教の自由」に反するという問題意識は以前から存在し、2002年の佐賀地裁判決では「自治会費と神社関連費用の一括徴収は違憲」とされました。

とはいえ、神社は地域の文化であり、伝統であり、必ずしも信仰の対象とは限らないという意見もあります。祭礼や神輿を通して子どもたちが地域と触れ合う機会にもなっているのは事実です。

しかし、文化と宗教の線引きを曖昧にしたまま「全戸加入・一律徴収」で続けてしまえば、信仰を持たない住民、異なる宗教を信じる住民にとっては明確な違和感や不公平感につながります。自治会が“誰のための組織か”という視点から見直しが求められているのです。

僕が自治会長を務めた時に秋の祭礼の費用が自治会から50万円程支出されていることが分かりました。豊橋市の自治連合会が作成した「自治会運営の手引き」には宗教的活動には配慮が必要との記述があります。祭礼への50万円の支出は好ましくありません。

そこで「秋まつり実行委員会」という自治会とは別の独立した組織を作り祭礼にかかる費用は自治会員からの「寄付」によって賄う仕組みにしました。ただ寄付ですべてをまかなうことは困難ですので、子供たちのお菓子、模擬店のおもちゃなど神事、宗教色のないものについては自治会が負担し秋まつり実行委員会が組長会議で会計報告を行い回覧するという形にしました。

政治との距離・自治会に接近する議員の存在

自治会と政治の関係もまた悩ましい問題です。なぜか自民党の市議や県議が「顔を出す」形で組長会議や総会に参加することは珍しくありません。意見交換の一環と見ることもできますが、住民からは「政治的な思惑が混じっていないか?」と懸念する声もあります。自民党の議員ばかりが「顔を出す」ことから何となく構図が見えてきます。

本来、自治会は地域における中立的な生活組織であり、政治的な立場に左右されるべきではありません。自治会長や役員が「政治家の後援会と誤解される」ような場面は極力避けなければなりません。しかしながら僕は統一市長選挙の際に「自治会長だから」ということである市議会議員候補の後援会名簿に名前が載り、選挙活動に動員されたり、弁士をやらされたりしました。

「嫌なら断ればいい」と簡単に言う人もいますが、地域の人間関係や空気がそうさせないのです。すでに断れない構造ができあがっている。これが今、地方の現場で起きているリアルな問題なのです。自治会が本来の中立性を失い、政治と一体化するような動きには、やはり強い警戒が必要です。

共通する問題・組織の自治と慣例の限界

PTAも自治会・町内会も、建前としては「地域の自主的な支え合い」のための任意団体です。強制ではなく、地域のために誰かが手を差し伸べ、助け合うという善意の積み重ねで成り立っているはずの組織です。

しかし実態としてはどうでしょうか。任意とは名ばかりで、「断れない空気」「やめられない雰囲気」「決まっているから」という言葉で、入会や参加、そして活動までが半ば自動的に決定されていく。そこにあるのは慣例という見えない強制力です。

たとえば、PTAの役員決めでは「誰も手を挙げないならクジにします」と言われ、押し黙るしかない空気が流れる。自治会でも「お宅が順番だから」と言われて組長役が回ってくる。こうした強制の形式化が常態化している以上、そこに「自治的な組織運営」があるとは言い難いのが現実です。

この慣例の支配の中で、最も深刻なのが「担い手不足」の問題です。本来、役割分担は無理のない範囲で、自発的に引き受けられることが理想です。しかし実際には、「誰かがやらなければ回らない」「やらなければ村八分になるかもしれない」という恐怖感すら漂う地域もあります。そうなると、若い世代や新しい住民ほど関わるのを避け、ますます負担が限られた人たちに集中するという悪循環が生まれてしまいます。

また、行事内容や組織改革の提案があっても、「昔からこうしている」「今さら変えるのは面倒だ」という声が上がり、結局現状維持。私自身も、PTAでも自治会でも「このやり方、おかしくないか?」と声を上げたことがありますが、真正面から議論されることは少なく、「まぁまぁ」で流されて終わってしまうこともありました。

こうした「自主的に参加」の名を借りた保守的な同調圧力こそが、PTAや自治会の最大の制度疲労の原因ではないでしょうか。本当に大切なのは、昔のやり方を守ることではなく、今の暮らしや価値観に合った仕組みへと柔軟に変えていく姿勢です。

では、どうすればよいのか?

「やめられる仕組み」を明示する

まず必要なのは、「やめられる仕組み」を明文化することです。PTAも自治会も、「入る・入らないは自由です」とは言われながらも、実際にはやめ方が分からない、またはやめた人がいないことで「入っていて当たり前」という空気が固定されてしまっているのが現状です。

加入の意思確認を毎年行う、非会員にも一定の情報共有を行う、会費の使途を具体的に公開する。そうした仕組みの整備が、強制の空気を和らげ、「納得の上での参加」につながっていくはずです。

「辞めてもいい」「会員でなくても情報は得られる」「必要があればまた戻れる」そんな柔軟な制度設計があれば、誰もが無理なく関われる仕組みとして、「健全なPTA活動」「自主的な自治会活動」が育っていくのではないでしょうか。

組織と機能を分離する選択肢

もう一つの解決策は、組織と機能を切り分けるという視点です。実際に東京都立川市では、保護者アンケートをもとにPTAが解散され、その後は学校側が行事ごとに保護者の協力を募る仕組みに移行しました。義務ではなく、できる人ができる時に関わる。それでも学校行事は支障なく回っているという報告があります。

自治会についても、宗教行事を切り離し、別組織を立てて寄付で運営するという方法を、私自身が自治会長時代に実践しました。これにより、信仰上の違和感を持つ住民にも納得してもらうことができ、地域の分断を避けることができました。

今後は「組織に属すること=地域貢献」ではなく、「必要な活動をどう支えるか」という機能主義的な視点に切り替えていく必要があると感じています。

行政の姿勢も問われる

そして最後に、行政の姿勢も見直さなければなりません。PTAや自治会は任意団体であるにもかかわらず、行政はその存在に多くを委ねています。ゴミステーションの管理、防犯灯の維持、防災活動の拠点など、「地域の共助」は一見すると民間のボランティアに支えられているようで、実は行政の外部化でもあります。

「市が関知しない」「任意団体なので指導できない」というスタンスでは、実質行政機能を担っている団体に対して無責任すぎるのではないでしょうか。少なくとも、加入の自由や宗教的配慮に関するガイドラインを整備し、手引書として明示すべきです。

自治会やPTAに過剰な責任が押し付けられる一方で、市や教育委員会が関与しないという現状は、「制度の矛盾」の象徴です。行政自身もまた、地域の在り方について責任ある関与を再定義する時期にきていると思います。

個人の自由と地域の支え合い、その境界

PTAも自治会・町内会も、もともとは地域の子どもたちを守り、地域の暮らしをより良くするために生まれた仕組みです。だからこそ、その存在意義まで否定するつもりはありません。

しかし、形だけが残り、義務感や同調圧力に支配された組織となってしまっては、誰もが心から「参加して良かった」とは思えません。「任意」と「強制」の境界が曖昧なままでは、人の善意をすり減らしてしまいます。

必要なのは、やらない自由を保障したうえで、やりたい人が気持ちよく関われる仕組みです。役割を割り振るのではなく、関わり方を選べる。「地域で生きること」は、義務ではなく選択であってほしい。

そして、その選択が尊重される社会を、私たち一人ひとりがつくっていく。そんな地域の姿を、次の世代に引き継いでいけるように、今こそ立ち止まって考える時ではないでしょうか。